九龍妖魔學園紀

九龍部屋。主皆メイン。

目次

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Vague

 
 
 

 曖昧に溶けて滲む境界線
 
 
 
 ぬくもりに包まれている。

 躯を包むぬくもり、肌に触れる暖かさ。
 眠りの深淵から不意に淡く浮上した意識は、身体を包む柔らかな熱を最初に認識した。
 心地よい温度に身体の芯まで温められるようで、思わず顔が綻ぶ。
 穏やかな眠りの明けが、いつもこんな風に訪れたならば言うことはないのに。

 未だ夢と現の狭間にたゆとう皆守は、無意識にそのぬくもりに顔を摺り寄せた。
 すると、そのぬくもりにくしゃりと頭を撫でられる。子供をあやすような仕草で二三度それは繰り返し、また躯を包む熱へと戻る。

「……?」

 何故、布団が自分の頭を撫でるのかと不思議に思った皆守は、重い瞼を薄っすら開いた。
 艶やかな黒いシルクが視界に入る。
 シーツの色は白いはずで、枕の色は薄い紫色をしていたはずだ。
 黒は、触れればシャラリと音を立てそうな、涼やかな。
 それは、意外と柔らかい質感を持っていることを知っている。

 まだ覚醒していない頭の中では取り止めもない言葉ばかりが浮かび、それらに接合性はない。
 ただ、普段寝起きする自分のベッドに黒い物は置かれていないという一点で、もう少し目を開く努力をする気になった。
 開かれた視界には、黒の他には肌色、肌色の上に薄い唇、高い鼻梁、すっきりとした頬、閉じられた少しつり気味の眼。今は黒い睫が縁取るそれは、開かれれば右は髪と同じ漆黒の色味に、左は海のような青が彩る不思議な虹彩を持っているのだ。
 普段は黒いカラーコンタクトを入れている左目の青を知っているのは、彼と遺跡へ同行するバディたちだけだ。
 自分は、遺跡ではない場所でも、彼の青を見たいのだけれど。

 彼。

 ぼんやりした脳でつらつらと考えた皆守は、そこでやっと目の前に人の顔があるのだという事に気がついた。
 そしてそれが自分の良く知る人物である事も。

「九ちゃん…?」

 よく眠っているらしく、ぼそりと零れた呼び名に反応はない。
 クラスメイトであり友人であり、トレジャーハンターという胡散臭い肩書きを持つ男、葉佩九龍。
 何故、寝起きの至近距離にこの整った顔があるのか。

「ッ……?!」

 あやうく漏れそうになった声を、ギリギリで皆守は押さえ込む。
 眠っている葉佩を起こしたくない一心で、身じろぎもしなかった。
 眼を大きく見開くだけに留めたが、彼に訪れた驚愕は相当なレベルのものだった。

 ようやく覚醒した脳と目で状況判断をしてみると、ここは自室のベッドで間違いはないようだ。
 ただ、何故か狭いシングルベッドの上には自分のほかに、隣の部屋からワープしてきたのか学校指定ジャージを着た葉佩が眠りこけている。
 狭い。
 皆守が細身でも葉佩は立派な体躯を持つ男で、そもそも男二人でシングルベッドは狭くないわけがない。
 自然と体を寄せ合うようにして眠っていたらしく、それが躯を包むぬくもりの原因だった。
 葉佩の鍛えられた腕はしっかりと皆守の身体を抱き込んでいるのだ。

 なんだこりゃ。
 硬直したままで、皆守は無性にアロマを吸いたい衝動に駆られた。
 しかし寝煙草をするわけにもいかず、というよりまず動けない。
 こんなに密着した状態では、少し動いただけで振動は葉佩に伝わってしまうだろう。そうすれば、聡いこの男が目を覚ましてしまうかもしれない。
 葉佩を起こしたくなければ、動かぬ他はないと判断し、皆守は諦めたように身体の力を抜いた。
 そして、改めて目の前の眠り男を眺める。

 男らしく、しかし過度の男臭さはない整った容貌に、同年齢とは思えない落ち着いて大人びた言動。しかし一度遺跡へ潜れば、稚気のような光を目に宿して仕掛けや宝を探索し、敵が現れれば冷徹で凶暴な顔で容赦なく屠る。
 イメージが一定しないが、それが葉佩九龍という男だと短い時間ながら浅くはない付き合いで知っている。
 興味深い男だ。
 何事にも関心を示さず、ただ日々を眠りの誘惑に漂いながら流れるように過ごしていた皆守に、興味深いと思わせた男。
 皆守でさえそんな思いを抱くのだから、他の人間にとってはそれ以上であろう。
 バディたちは皆、彼を深く慕っているし、クラスメイトや果ては他のクラスの人間にまで親しげに話しかけられている姿を良く見かける。

 けれど、葉佩の中には巧妙に隠された一線がある。
 誰とでも親しく付き合うように見えて、奥の一線には誰も入り込ませない。
 初めは皆守も気付かなかったそれは、時が経つにつれてはっきりと目に映るようになった。
 トレジャーハンターとしての意識がそうさせるのか、生来の物なのか。
 楽しそうに笑う事、仲間を慈しむ事、それらの感情は嘘ではない。だが、葉佩からの矢印と、仲間からの矢印はイコールではない。
 たとえば、彼は人を部屋に簡単に招きいれるが、彼の座る位置はいつも変わりない。
 必ず、デスク前の椅子に腰を掛けて来訪者をもてなす。床の上やベッドの上など、決して同じ位置に座ろうとはしないのだ。
 たとえば、彼は人前で眠らない。
 どんなに眠たそうでも、居眠りもしなければ、たとえ眠っていても人が来ればすぐに目を覚ます。
 警戒心が強いというよりも、やはり皆守には線引きに見えた。

 だが、それは時折自分の前でだけ滲んで見えるようになった。
 葉佩は頻繁に皆守の部屋へと遊びに来る。居心地がいいらしい。
 最初の頃は神聖なる睡眠の場に遠慮もなしに入り込んでくる《転校生》にイラついたものだが、気がつけばそれが当たり前になりつつある。
 皆守の部屋では平気で隣に腰を下ろすし、屋上に訪れれば隣へと陣取る。
 そう、何時からだか屋上での昼寝に葉佩は付き合うようになった。
 最初に見た時は驚いたものだった。隣でまどろんでいる男に我が目を疑ったのはもうかなり前の事だ。
 そうやって、徐々に境界線が霞んで。

 まさに、今、その境界線は曖昧に滲んでいる。

 体温を分け合い、寝間着の布だけが遮るだけで空気の通る隙間すらもなく。
 互いの落ち着いた鼓動と静かな呼吸が重なり合う。
 それは不可思議な感覚だった。

 はっきりとした線を持っているというならば、それは皆守の方にこそ相応しい言葉かもしれない。
 不健康優良児、無気力男などと回りに評される皆守は、それはもう他人に対して関心どころか、見えていないのではないかというほどに世界と隔絶した場所で呼吸していた。
 何人たりとも彼の世界へ足を踏み込めず、彼も外の世界へ踏み出すことはしなかった。
 それに不満などはなく、そもそも不満を持つ事を考える事自体を放棄している。
 そういう風に、居たはずで。
 こんな風に誰かと体温を分け合うような行為を、普通に受け入れている自分に驚くばかりだ。

 窓からはまだ明かりが差し込んではいない。
 暗さを保った部屋は、まだ時間が明け方前であることを示している。
 まだ起きるには早い時間だったが、かといって驚きによって覚醒してしまった意識はまだ冴えたままでもう一度眠る気にもならず、皆守は改めて目の前で健やかな寝息を立てる男を見つめた。
 そうして、昨夜の事を思い返す。
 
 
 
 
 いつものように葉佩は皆守の部屋へやってきた。
 遺跡探索をしない夜は、もはやお約束のように来訪してくる。
 皆守もすっかりそれに慣らされて、こない方が不自然に思えるほどだ。

 葉佩が部屋に来てする事といえば、DVDを見るだとか雑誌や本を読むだとか、ゲーム機を持ち込んでくる時もあり、皆守よりよほど学生らしいといえば学生らしい。
 自室でやってもかまわない様な事ばかりだが、それを咎めても困ったような顔で邪魔か?と言われれば、つい別にと返してしまう。
 すると、嬉しそうに微笑んでみせるのだ。
 そんな顔をされては帰れと言えずに、皆守は結局いつも同じ時間を共有している。

 お互いマイペース同士なので、同じ部屋にいても違うことをしている事が多々ある。
 昨夜も葉佩はベッドの淵に腰をかけて銃のカタログを熱心に眺めていて、皆守はベッドの上に転がって料理雑誌のカレー特集を見ていた。

「うーん…、新しい銃が欲しいけど高いな…」

 葉佩は長い足を組んだ膝の上に雑誌を乗せて、顎に手を当ててうなっている。
 クエストで散々儲けているしおそらく貯金額も半端でないだろうに、一体どれだけ高いものを買おうとしているのか気になってちらりと視線を投げる。
 すでに風呂に入った後の葉佩はコンタクトを外している。皆守の位置からは見えないが左目が青いはずだ。
 トレジャーハンターの癖にというと偏見かもしれないが、葉佩の左目はとても視力が悪いらしい。裸眼ではほとんど何も見えないと豪語していた。
 普段は目立たないように黒のコンタクトしているが、何故か遺跡へ潜る時にはそれを外す。
 左目が見えないのに危なくはないのかと聞けば、視力は悪いが目には見えないものが映るのだと答えた。皆守はどういう意味だか正確には理解していないが、要するに特別製の目ということなのだろう。
 色が青いのもそのせいなのかもしれない。

 皆守は深く透き通った青が見たくて、じっと葉佩の横顔を見つめた。
 距離は、手が届くくらい。
 皆守が寝転がっているすぐ横に座っているので、僅かに身体の一部が触れている。

 最初の頃は、隣に座っていても一人分弱くらいの距離があった。
 そのプライベートスペースは日を重ねる毎に少しずつ縮まって、今では隣あって肩が触れ合っているぐらいで普通になってしまった。
 むしろ、隣にいるのに彼との間に僅かばかりでも隙間があるのが気になる。
 割合スキンシップの多い葉佩は、人嫌いといっても差し支えない皆守に躊躇せず触れてきた。
 その手は、とても暖かい。体温の低い皆守にはとても心地よく感じられる。
 よくうっとおしいとその手を払い除けるが、決して嫌がってはいない事がきっと聡い葉佩にはばれているだろう。
 分かっていて、触れてくるのだ。
 ゆっくりではなかったけれど急くでなく、葉佩は皆守の中へと浸透していった。
 皆守の許す距離を、距離を縮めるタイミングを、全て分かっていてやっているに違いないと思った。

「……何?」

 じっと見つめていると、葉佩が振り向いた。
 僅かに首を傾げて微笑を浮かべた唇が、コウタロウ?と名前を形作る。その瞬間が、たまらなく。

 皆守は僅かに身を起こして、手を伸ばした。
 指先で頬骨のラインに触れると暖かい。指先からほわりと熱が伝わってくるようで、いたたまれずにすぐに手を離した。
 不意の行動をどう思ったのか、葉佩は目をしばたたかせて皆守の茶色い瞳の中を見やる。

「何かついてた?」
「……目と鼻と口」
「そりゃ付いてなかったら怖いだろうよ」

 無表情でお決まりの台詞を返した皆守に、笑って答えた葉佩は雑誌を閉じた。
 そして今度は葉佩が手を伸ばして、皆守の緩やかなウェーブを描く髪をわしゃわしゃと少し乱暴に撫でる。
 憮然とした顔をしつつも振り払わないのは、今自分が触ったお返しのようなものだからと心の中で言い訳をした。

「さて、そろそろ寝るか」

 時計の針はすでに1時を回っている。
 探索に出かけないのであれば明日に備えて寝るべきだろう時間だ。
 葉佩は部屋に戻るべく、雑誌を持ってベッドから立ち上がろうとする。
 
 熱が、離れて。
 出来た隙間に冷たい空気が割り込んだ。

「……どうした?」

 咄嗟に、手を伸ばして葉佩の腕を掴んでいた。
 思わず掴んでしまっただけで、何かを考えていたわけではない。
 不思議そうな顔をする葉佩に言い訳の言葉を捜して皆守は口篭った。言い訳は見つからないが、その手をを離す気にもなれないのは何故なのか。

「…もう少し、いいだろ」

 口をついて出た言葉に、自分自身で呆れた。
 もっと他に何か言い様はなかったのか。
 皆守は視線を彷徨わせながら、おずおずと葉佩の手を離した。触れていた温度が、まだ手のひらの中に残っている。
 それを、なんとなく握り締める。

「でも俺眠いんだけど」

 ちっとも眠くなさそうな顔で葉佩は言う。
 困ったような色を目に宿して、黒と青の双眸は皆守を見ていた。
 ほとんど視力のない青の中にも、しっかりと自分の間抜けな顔が映っているのにどうしてか安堵する。

 葉佩を引き止めて、何がしたいのかなど分からない。
 ただ、離れてしまった熱がほんの少し切なくて。
 このまま男が部屋を出てドアを閉めて去っていく後姿を、見たくないと思っただけだ。

 いつもは知らぬ間に詰められている距離を。
 たまにはこちらから、詰めてやるのもいいかも知れない。

 皆守はもう一度手を伸ばして、葉佩の腕を強く引いた。

「ここで寝ろ」

 ベッドの奥へと身を詰めて、ついでに布団の端まで捲ってやると、葉佩が目を丸くした。
 その顔が見れただけで、一晩窮屈な思いをする価値はあると思った。

「いいのか?」

 葉佩が驚きと戸惑いの入り混じった表情で問い掛ける。
 断りの台詞でなかった事に安堵している事など悟られないよう、皆守は料理雑誌を床へ放り捨てると自分も布団の中へ潜り込んだ。
 シーツの冷たさに顔を顰めて、突っ立っている葉佩を睨みつけて言う。

「早く来い、寒い」
「……じゃぁ、遠慮なく」

 苦笑しながら雑誌を床に置いて、葉佩は皆守の隣へと滑り込んだのだった。
 
 
 
 
 ぬくもりが僅かに動いた。
 昨晩のことを思い出している間に、いつの間にか再びまどろんでいた意識がゆっくりと浮き上がる。
 身じろいだ熱が頬に触れた。
 大きな手の感触がするりと頬を辿り、指先がふわりと髪を梳く。
 まだ覚醒しきらない皆守は目を閉じたままそれを受け入れた。
 起こさないようにと優しく触れる手は、葉佩の物だ。温度が通う度、安心する。
 繊細に遺跡の壁画を辿り、時折冷酷にトリガーを引く指先は、触れる時は驚くほど優しくて時折胸がきつく痛んだ。

「甲太郎…?」

 寝起きの掠れたハスキーボイスが極近くで囁かれたが、まだ覚醒の階段を上りきっていない皆守は反応する事が出来ない。
 ただ、その音で呼ばれるのも心地良いなと思った。

 触れていた手が遠ざかる。
 ギシリと体重移動で軋んだベッドの音に、葉佩が起きてどこかへ行ってしまうのではないかと不安に駆られて、皆守の意識は急激に浮上する。
 だが、目を開くより先に。

 ふわり、瞼に何かが触れた。

 微かに触れたそれは、指先の感触ではなく。
 少し乾いた指先よりも熱い、何か。

 バクリ、と心臓が跳ねた。
 まさか、そんなわけがない、何を考えている、と目まぐるしく頭の中で意味のない言葉が乱舞する。
 体温が上昇するのがはっきりと分かり、それが葉佩に伝わりやしないかと焦った。
 何かが触れた瞼の上はじくじくと熱を持っている。怪我でもしたような熱さ、でも痛みではない。
 
 もっと、甘い何か。

 葉佩がどんな顔をしているのか急激に気になって、皆守が意を決して目を開こうとすると、耳に高い電子音が届いた。
 のんびりとした電子音楽を奏でているのは、携帯のアラーム音だ。
 思わずばちりと目を開く。

「……きぅちゃ、ん…?」
「おはよ、甲太郎。朝だぜ」

 床の上に放置していたらしい自分の携帯を手を伸ばして取った葉佩は、アラームを止めながら爽やかな笑みを見せる。
 何の変哲もない、曇りのない笑み。
 なんだか現実感がなくて、皆守は何度か目をまばたいた。

「……はよ…?」

 やっとこのことでそれだけ搾り出すと、もう一度目を閉じた。
 まだ、やっぱり瞼の上は熱い。
 熱いのに、葉佩はいつもと変わりない姿で。

「おい、二度寝する気か? 遅刻するぞ」

 このままもう一度眠って、このぬくもりを手放したくない。
 瞼に落ちた感触を、夢の中でもう一度確かめたい。
 そう思っても、隣の男はそれを許さないらしい。
 一頻り寝癖の付いた皆守の頭を撫でた後、容赦なく布団をひっぺがした。
 突然冷たい外気に触れてぶるりと身体に震えが走る。思わずぬくもりへと引っ付いたら、それは葉佩の身体なわけで。

「おーい、こーちゃん? 寝惚けてるのか? 俺は布団じゃないぜ」
「……う~……」

 身体を丸めてひっしりとしがみ付いた皆守に、葉佩が笑いを漏らす。
 あやすように背中をぽんぽんと叩かれても、頬を突っつかれても怒る気がしない。

 本当はだいぶ目は覚めていた。
 だが、もう少しこのぬくもりから離れたくない。
 寝惚けている振りをして、もう少しだけ。

「……そんな無防備にしてると、悪戯するよ?」
「……?」

 悪戯とは何ぞや。
 のろのろと皆守が顔を上げると、ニヤリとした笑みを浮かべた葉佩の顔があった。
 少し細められた目に、薄い笑みを刷いた唇にドキリとする。この男にはこんな顔が良く似合う。
 と、そこでぼんやりとしたのがいけなかった。

 グイッと身体を押されて、顔の上に影が落ちた。
 葉佩に肩を押さえられ、顔を覗き込まれている。
 何をする気だ?といぶかしんだのもつかの間、長い指先に頤を捉えられてさすがの皆守も目を見開いた。

 黒と青の双眸がゆっくりと近づいて。
 指先の力に少し上向けられた顎が、自分のものではないような気がした。何かを言おうとした唇は小さく震えただけで、喉の奥に絡まった言葉は吐き出されない。
 僅かに斜めに傾けられた顔の、慣れた仕草にジリリとどこかが焦げた音がする。
 皆守の意志など関係なく、勝手に走り出した鼓動を止める術はない。
 落ちてくる葉佩のそれを、止める術も。

 吐息が、触れ合った。

 唇が。
 間抜けにも薄っすら開いた己の唇の、3mm先に男の唇が。

 触れる、と思った瞬間。

「ッ?!」

 カプッと、鼻を甘噛みされた。

 瞬間的に顔に血が上り、鼻を押さえてガバッと皆守は身を起こした。
 混乱した頭よりも身体の反応の方が早かった。皆守は不自然な体制から蹴りを繰り出す。
 だが、あっさりと空振る。葉佩はすでにベッドを降りてニヤついていたからだ。

「目ェ覚めた?」
「……何しやがるテメェ…!」
「悪戯するって言ったろ? 早く起きないお前が悪いね」
「この、クソトレハン……っ!」

 何をしているんだと蹴り付けたいのは本当は己の方だ。
 葉佩が近づくのを止めもせずに眺めていたのは、どこの誰だ。
 急上昇した血液が熱い。まだ収まらない鼓動が煩い。
 何故、こんなに動揺しなければならないのか。
 皆守の様子を余所に葉佩はまったく悪びれずに笑うと、雑誌を拾ってひらひらと手を振った。
 
「じゃ、俺着替えるから戻るな。お前も二度寝すんなよ」

 言うだけ言うと、葉佩は何の余韻も残さずにあっさり部屋を出て行った。
 バタンとドアが閉まった音を聞いて、ようやく皆守は脱力する。
 軽く深呼吸をすると、やっと鼓動や呼吸が通常時まで回復した。

「……何してんだ、俺は…」

 昨日から、おかしい。
 あれだけ人と関わる事を避けていたはずなのに、葉佩を部屋に引き止めたり。
 あまつさえ同じベッドで寝てみたり。そのぬくもりを心地よいと、手放したくないなどと。
 完全におかしい。自分はどうかしてしまったのではないかと本気で疑った。
 いや、本当はもっと前から、変調は訪れていた。
 
 本当は、分かっているのだ。

 奥底で、揺らめいているそれを。
 くすぶっている燠火の存在に、気付いている。
 だが、認めてしまうわけにはいかない。

 深い、ため息を吐いた。
 皆守は立ち上がると寝間着を脱ぎ捨てて、学生服を手に取る。
 葉佩の唇が触れた瞼と鼻は、まだ熱く色づいているようだった。
 
 
     ◇
 
 
 制服に着替えると、律儀に葉佩が部屋へ呼びに来た。
 仕方ないので一緒に寮の食堂で朝食を取って、朝の冷たい空気の中を肩を並べて登校した。

 朝から授業に出ている自分の姿も、最近では珍しくなくなったのだろう。
 前は一々誰かしらに熱でもあるのかなどと尋ねられたりしたものだが、この所は妙に暖かく迎え入れられていて居心地が悪い。
 退屈な授業中は相変わらずうとうとしてばかりだが、それでも出ている事に意義があるのだと八千穂あたりは言うのだろうか。

 三時限目までは、我慢した。
 4時限目が始まる前にどうにもだるくなり、皆守は屋上へと向かった。
 今日は天気がいい。絶好の昼寝日和だ。

 屋上のドアを開けると、吹き込んだ風に髪や開けっ放しの学生服の裾が攫われる。
 この重い扉を開ける時はいつも風に身体を洗われるようだ。下界でまとわりついたしがらみが少しだけ拭い落とされるようで、冷たい風が気持ちいい。
 常の定位置である給水塔の下へ腰を下ろし、アロマパイプを咥えるとスティックに火をつけた。
 視界に緩やかに立ち上る紫煙を見て、ラベンダーを肺へ吸い込むと一心地付く。
 一人でこの場所にいると、流れるままに無気力無関心を貫き通していた時間を思い出す。
 まるで、葉佩が《転校生》としてこの学園に訪れ、遺跡を日に日に暴き立てて行く非日常が夢ではないかと思えてくる。
 テリトリーへと侵入され、いいように掻き乱される心が、赤の他人のもののように。
 そうだったら、いっそ楽だろう。
 妖しく煌くオッドアイが別に誰かを見つめ、大きな手が別の誰かを撫でる。
 肩を寄り添わせ、毎夜特別な場所で戦うその傍らに。
 
 別の誰かが。

 ジリッ。

 音を立てて焦げたのはアロマの先端か、胸の奥なのか。
 皆守は澄み渡る空を見上げて乾いた笑いを漏らした。

 出来る訳もない癖に。
 
 
 不意に、ギィと扉が開く音が屋上に響く。
 足音が近づき、予想通りの長身が姿を現した。
 たった今まで考えていた男の登場への動揺をおくびにも出さずに、皆守は影を作った男へと視線をやる。
 葉佩はビニール袋をぶら下げて、やっぱり空の青みたく澄んだ笑いを見せた。

「そろそろサボると思ってた」
「わかってるなら放っておけ、俺はこれから昼寝タイムだ」
「昼寝の後は腹が減るだろ?」

 断りもなく隣に腰を下ろした葉佩は、がさがさとビニール袋を振って見せた。
 購買で買ってきたらしいパンが透けて見える。そつのないこの男ならば、確実にその中に皆守の好物であるカレーパンが入っているはずだ。
 皆守は仕方がないという素振りでそれ以上何も言わず、アロマの紫煙を空へ浮かべた。

「アロマが美味いぜ……」
「…それ、そんなに美味い?」

 学ランの前ボタンをくつろげて大きく伸びをしていた葉佩が、皆守の手の中にある鈍色のパイプに視線を止める。
 紫色のスティックが煙を漂わせるそれに、興味津々らしい。
 いつも副流煙や皆守自身に染み付いた香りを嗅いでいるが、味は試したことがないから気になるのだろう。
 皆守は微かに笑うと、パイプを揺らして葉佩へと示した。

「吸ってみるか?」

 昔の自分ならば絶対に言わない自信がある。
 少なくとも、葉佩以外の人間には確実に言わないだろう台詞が転がり出た。
 ラベンダーの香り漂うそれは、皆守の精神安定剤だ。すなわち、ウィークポイントと極近いものだ。
 それを、冗談でも他人に勧めてみる言葉などがさらりと漏れた。
 
 本当に、毒されている。
 曖昧に境界を滲ませるそれが、こちら側にまで侵食して来ている。
 ゆらゆらゆれる線が、互いに絡まりあって。

「じゃぁ、味見」

 クスリと小さく笑った葉佩の瞳が印象的で、一瞬目を奪われる。
 今朝の、至近距離で見たあの悪戯じみた目を思い出した、その時には遅かった。
 伸ばされた手はパイプを取らずに皆守の手首を掴む。若干華奢な手首は、葉佩の大きな手に包まれると余計にそれを主張するようだ。
 僅かに肩が触れていた身体が斜めに覆いかぶさって、空の青を見えなくさせた事を気にする暇もなく。

 紫煙を含んでいた唇に、熱が触れた。

「…っ?!」

 小さく吸われて、ラベンダーのアロマは別の男の唇へと香りを移す。唇から直接煙を吸い込んだ男はそれだけでは飽き足らず、離れていく際にぺロリと小さく舐めた。
 顔を起して思案気な顔をした男は口の中を味わうように小さく口内を動かし、さらに自身の唇もを舐める。
 赤い舌が小さく覗いて、青空の下でその光景はやけに卑猥に映った。

「…ふぅん、面白い味だな」
「……九ちゃん、普通そこからは吸わない、だろ…」
「あ、そうか、悪ィ」

 皆守は葉佩を穴があくほど凝視しながら、搾り出すように言った。
 声が僅かに上ずっていたのも仕方がないだろう。
 真っ赤になって慌てふためかなかっただけ上等だ。本当は驚きすぎてリアクションも出なかっただけなのだが。
 皆守は感触を拭い去るように、急いた仕草でアロマを吸っては吐いた。
 
 今、確かにキスをした。

 そう、頭で理解した途端、叫びだしたくなるような衝動が身体を突き抜ける。
 耳たぶが焼けるように熱い。葉佩と触れ合った唇が、燃えているかのようだ。
 この男は一体何を考えているのだろう。
 葉佩は平然とした様子で、結構美味いかも?などとほざいている。
 ラベンダーの味のはずなのに、自分の唇の味を言われたようで羞恥心で逃げ出したくなった。
 間が空く事がいたたまれず、言葉を捜しあぐねて、ふと思いついたままに口にしてみる。

「…お前、まさか他の奴にも……こんな事、してんじゃねェだろうな」
「はぁ?」

 言ってしまってから、しまったと思った。
 嫉妬しているみたいな台詞だからではない、その台詞によって奥底で密かに思っていた事を突き付けられたからだ。
 自分の言葉によって、嫉妬という事を気付かされるなんて馬鹿としか言いようがない。
 口に出してしまった事は、訂正できない。
 皆守は、葉佩が他の人間にも同じことをしたら、許せないと思ってしまった自分に心中でため息を吐く。

 出来る訳もない。
 もう、この場所を他の誰かに譲り渡す事など、出来はしないのだ。

 認めてしまえばもっと苦しくなる。
 相手が同性だからという事もある、葉佩がいつかはいなくなる存在だという事もある。
 だが何より、潜めた秘密が、この想いを苛めるだろう。

 消せない想いと消せない痛みが同時に齎される。
 それでも、
 頑なな殻を破り生まれ出でたものは、簡単には殺す事は出来ないのだ。

「しないよ」

 葉佩の声が耳朶を震わす。
 目を向ければ、予想外に真剣な光を目に宿した男がいた。
 きっぱりと否定された、その意味が分からない。
 嘘つきな男だ、だが今の言葉に嘘はないと自然に思えた。
 他の人間にしないのであれば、自分だけにするのだという意味に取れなくもない。
 極甘い誘惑に指先が震え、ガチリと銀のパイプを噛み締めて打ち消した。

 淡い期待。

 そんなことはとうの昔に止めたはずだ。
 何も望まなければ、苦しむこともない。
 何も欲しがらなければ、悔しい思いもしないで済む。
 
 感情は目の前の男に揺り起こされた。
 生き方さえも、揺るがせるのか黒鴉。

 ごまかす事に意味などないのだと、今は隠された青い瞳に諭されているような。

「…寝る」

 皆守はアロマを消して、パイプを胸ポケットにしまうと目を閉じた。
 これ以上は、歩くのを止めていた足では踏み出せない。
 眠ってしまえ。
 何も考えずに、意識を手放して白濁の海へ漂えば。
 この馬鹿げた揺らぎも海へ流れて消えるかもしれないと。

「おやすみ」

 低い声音が、酷く優しく耳に響いた。
 
 
     ◇
 
 
 しばらく昼寝をして目を覚ますと、隣に葉佩の姿はなかった。
 横には昼食の入った袋が置き去りにされている。
 時計を見ると、すでに5時間目の授業が始まっている時間を指している。葉佩は授業に戻ったのだろう。
 触れていたはずの肩が風に晒されて少しの寒さと寂しさを感じたが、振り切るようにビニール袋を手に取った。
 中身はやっぱりカレーパンだった。
 付け合せのコーヒー牛乳も一緒に昼食をたいらげると、皆守はズボンを払って立ち上がった。
 もうすぐ5時限終了の鐘がなる。6時限目は担任の雛川の授業だ。サボってあとで喧しく言われるのも面倒なので出席した方がいいだろう。
 身体よりも気分が億劫で仕方なかったが、ゆっくりとした足取りで皆守は教室へと向かった。


 5限の授業の終わった教室のドアを開くと、すぐにあの男の長身が目に付いた。
 気にしているわけではなく、葉佩は目立つ体躯なのだ。
 高身長と鍛えられた身体にどこか不似合いな学ラン姿は、同学年の中で浮いている。
 浮いているというならば留年転校生である夕薙大和もそうなのだが、浮き方の種類が違う。
 夕薙は外見がとても学生には見えなくて浮いているが、葉佩は雰囲気が異種を感じさせる。違う生き方をして来た男だと、背中がそう語っているように見えた。

 葉佩は席から離れ、クラスメイトと話していた。
 皆守がだるさを隠そうともせずに席へ着くと、すぐに気付いた葉佩が目線を合わせて微笑む。
 どうやら級友である男子生徒に国語の宿題を教えていたらしい。海外生活が長い癖に、国語も不得手ではないのが不思議だ。
 三つ前の席から、声が漏れ聞こえてくる。

「悪ぃな葉佩、俺今日当たるんだよ~」
「いいよ、他にはどこが分からないんだ?」
「ここと…、それから…」

 人面がいいことだ、と鼻で笑いたくなる。
 級友も自分が教えを乞うている相手の正体が、《生徒会》と敵対する墓荒らしだとは考えもしないだろう。
 何も知らない男子生徒に淡く芽生える優越感と、ほのかに抱いた羨望感。
 無関係なクラスメイトであったなら、とは思わない。だが、自分で選んだこととは言え抱えた秘密が胃を重くする時もある。
 葉佩に対する想いを抱いてしまった今は、重みどころか突き刺す痛みに血を吐きそうなほど。

「あれ? 葉佩…」

 席に座って熱心にノートに書き込んでいた男子生徒が、横に立つ葉佩を見上げて驚いたような顔をする。
 なんだ?
 
「お前、目の色左右違くない?」

 ビクリ、と我知らずに机の上の指先が震えた。
 男子生徒の窓辺の席は午後の光が強く差し込んでいる。当然立っている葉佩にもそれは降り注いでいる。
 陽光に黒のカラコンが透けたのかもしれない。人工の色は良く見れば自然の色との違いが分かるのだろう。
 サラリと黒髪が揺れた。葉佩の左側の前髪が長めなのは、目を隠すためだ。

「そんなことないよ、光の加減だろ?」
「えー、でも確かに色が…」

 首を傾げて困ったように片目へと手をやった葉佩の顔を、男子生徒は覗き込もうと首を伸ばして顔を近づける。
 ギリッと奥歯が軋みを鳴らした。
 限界だった。
 皆守はペンケースから消しゴムを取り出すと、高速で手首を動かした。
 ありえない速度で飛んだそれは、ゴツッ!とありえない音を立てて目標へ見事到達した。

「イダ!!! 何だ?!」

 頭を押さえた生徒は、ガバッと後ろを振り向く。
 真後ろから飛んできたのは明白だっただろう。そして皆守の前の生徒はまだ席に着いていない。
 犯人はまる分かりだった。
 短い髪の生徒は涙目で床に転がった消しゴムと皆守を見比べると、小さく唸った。

「皆守! お前だろ!」
「……悪ぃ、勝手に飛んだんだ」
「そんなわけあるか!」
「…ゴムだからな」

 誤魔化す様に淡く微笑みつつも、視線に冷気をありったけこめてやると、生徒はただならぬ空気を察したのか、すぐに消しゴムはゴムじゃねぇだろ…と言いつつ目を逸らした。
 皆守は聞こえないようにフンッと小さく鼻を鳴らした。
 あの青を間近で見てもいいのは、お前じゃない。

 聞きなれた低い声の苦笑が聞こえてる。
 消しゴムを拾った葉佩が、歩いてきてハイと手のひらに乗せて差し出した。
 気まずい。
 消しゴムを受け取りペンケースにしまうと、小さくサンキュと葉佩が囁いた。
 礼を言われる覚えは皆守にはない。ただ、自分しか入れないはずの距離へ近づこうとした奴が気に入らなかっただけだ。
 もう誤魔化しようもなく立派な嫉妬である。

「目、ばれたら面倒だからさ」
「…ああ」

 そういうことかと相槌を打って、皆守は軽く自己嫌悪に陥る。
 そんな事はまったく頭に無かった、ただの嫉妬だとは口が裂けても言えない。
 皆守が余計な助け舟を出さずとも、葉佩ならば自分でなんとか出来たであろうことも明白だ。
 葛藤は嵐のようだ。
 こんな気持ちを持つ資格などないのに、この男の隣を誰にも譲るまいと思う。
 誰よりも近い位置に立ちたい思いと、全てを忘れて眠りの世界へと逃げ出してしまいたい苦しみがない交ぜになって胸の中を掻き回す。
 そこから湧き出る黒い咎が、蟲惑的に脳に囁く。

 あの《墓》の最奥で、お前の前に立ったならばどんな顔を見せるだろう?

 少しでもその目が見開かれるならば、その顔を歪ませられる事が出来るならば。
 裏切りさえも甘く――。

 気まずい空気を仲裁するように、6時限目が始まるチャイムが響いた。
 席へと戻っていく葉佩の背を見送って、皆守は教科書を開くだけ開いていつものように目を閉じた。
 
 
 
 授業が全て終わり、生徒たちが帰り支度を始める音で目が覚めた。
 大きく欠伸をして、首をぐるりと回す。バキバキと若者らしくない音を鳴らし、身体を目覚めさせてから立ち上がった。
 睡眠が足りない。帰ってから寝なおそう。
 他人から見ればそれだけ寝ていて何を言うかという感じだが、皆守は今日一日葉佩の事ばかりがちらついて居眠りも昼寝も、あまりよく眠れていないのだ。
 何も考えずに嗅ぎなれた匂いのある部屋の、柔らかな布団の中でぐっすりと眠りたい。

「甲太郎、マミーズ寄ってくか?」
「…いや、眠いから帰る」
「そうか。じゃぁ夕飯の時間に起こしに行ってやるよ」
「ああ」

 自然と一緒に教室を出て、肩を並べて寮へと歩き出す。
 途中、八千穂や他の仲間たちが元気良く帰りの挨拶をして去っていくのに、葉佩は一々丁寧に答えていた。

「今日は夜遊びには行かないのか?」

 誰とも約束をしていないようなので、やや声を潜めて問う。
 てっきり付き合わされると思ていたら、帰ってきた答えに肩透かしを食らった。

「いや、今日もなし。アレが修理からまだ戻ってきてないんだ」

 皆守は意外な台詞に肩眉を上げる。二日連続遺跡探索をしないのは仕事熱心な葉佩にしては珍しいからだ。
 頭の中を検索すると、一昨日行った前回の探索で敵の攻撃を受けた葉佩のハンドガンが壊れてしまった事を思い出した。
 昔から使っている相棒だという黒いそれは真っ二つとまではいかなかったが、個人の整備で治るレベルの壊れ方ではなかった。ずっと使い込んでいると言っていたから、おそらくすぐに修理に出したのだろう。

「別になくても行けるけどな。ま、休養代わりだと思えば」

 ずっと傍でトレジャーハントの手助けをして来たそれがあるとないとでは、心持が違うのかも知れない。
 危ない仕事だ。それ一つで安心できる物があるのならば、身に着けて置いたほうがいい。
 懸命にも探索に行かないという葉佩に、皆守は安堵した。

「夕飯の後さ、お前の部屋でDVD見ないか? 新作届いたんだ」
「……好きにしろ」

 今夜も、葉佩が部屋に訪れる。
 湧き上がるのは嬉しさ以外の何物でもなかったが、皆守は仏頂面でいつものように素っ気無く答えた。
 皆守の返答に、葉佩は嬉しそうに笑う。
 
 胸が、締め付けられた音がした。
 
 
     ◇
 
 
 夕食後、葉佩はすぐに皆守の部屋へとやってきた。
 新作のDVDは通販で仕入れた物だろうか。この歳の男子ならばAVでもおかしくない所だが、葉佩は洋画好きらしい。
 つられて見ているうちに、皆守も自然とそこそこ詳しくなってしまった。

 葉佩がいつものようにベッドを背にTV前の床へと座る。
 簡易キッチンでコーヒーを入れながら、皆守は振り返らずに声をかけた。

「今日のは何だ?」
「アメ産の恋愛モノ」
「……男二人でそんなもん見て何が楽しいんだ、お前は」
「馬鹿にするなよ、アカデミー賞ノミネートされたヤツなんだぜ」

 ケトルからカップへお湯を注ぎながら、皆守は眉間に皺を刻む。
 よりによって今、葉佩と二人きりで恋愛モノの映画鑑賞。笑えない。
 コーヒーカップを両手に戻ると、嬉々としてデッキにディスクを放り込む男の姿があった。
 それを見たら、無性に腹が立って来る。

 聡い男だ。
 この曖昧に滲んだ掴めない距離感を、まったく気付いてないなどと、言わせない。
 確かに大きく揺らいでいるのは自分の方かもしれない。
 だが、先に距離を詰めて、ラインを踏み越えてきたのは葉佩の方だ。
 そ知らぬ顔をして、この後もずっとやり過ごすつもりなのか?

 すでに、気付いた途端に想いは溢れそうになっているのに。

「九ちゃん、コーヒー」
「ああ、サンキュ……、って…」

 コーヒーを受け取った葉佩が溢さない様に慎重な動きしか出来ない時を見計らって、座った足の間に皆守はドサリと腰を下ろした。
 そのまま男の胸に凭れかかり、長い両足を椅子の肘掛のようにしてくつろいでやる。
 背後のギョッとした気配に、思わず噴出しそうになったがそこは堪えた。

「こーちゃん、お前ね……」
「特等席だな」

 なんでもないような顔で、リモコンの再生ボタンを押してからずずっとコーヒーを啜る。
 だが舌に感じる熱さよりも、身体を包むぬくもりの方が皆守にはよほど熱く感じられた。
 早まってしまいそうな鼓動を、意志の力で押し留める。

「重い」
「うるさい、黙って俺の椅子になれ」

 葉佩の声が耳元で聞こえて、危うくコーヒーを噴きそうになった。
 思ったよりも危険な場所だったかもしれないと、早くも馬鹿な事をしたと後悔が走る。
 だが、今更移動する気にもなれない。
 
 昨日の気まぐれと同じ。
 こちらから線を踏み越えて、近づいてやれば葉佩はどんな顔をするのだろうか?
 少しくらい動揺すればいいのだ。
 いいように翻弄されている悔しさを、少しくらい味あわせたいと思った。
 
「…まったく、お前が悪いんだからな」
「九ちゃ…?」

 聞こえてきた深いため息に、怒らせただろうかとドキリとする。
 葉佩はコーヒーカップを手を伸ばしてベッドサイドへ置くと、皆守のカップも取り上げて同じように置いた。
 DVDはすでにOPが終わり、物語の序章が始まっている。
 ブロンドの美人が短いスカートで街の中を颯爽と歩いて行くのが視界の端に映ったが、次の瞬間にはそんなものは目に入らなくなった。

 ちゅっと、後ろから聞きなれない音が届いた。
 同時に首筋に熱い感触を感じて、ビクリと身体を揺らす。

 何が。

「今朝言ったろ? あんまり無防備にしてるなって」

 いつもはナイフや銃を巧みに操る指の長い大きな手が、するりと自分の紫の服の胸を撫でるのが現実感なく目に映る。
 カリッと耳朶に歯を立てられて、皆守はようやく状況が飲み込めてきた。
 葉佩を椅子代わりに足の間に座っていたはずが、いつのまにかその椅子に抱きしめられて背後から不埒な行為を仕掛けられている。
 朝の悪戯が、目覚める前の夢と間違えそうなキスが、一気に頭と血を駆け巡った。
 一瞬で、体温が上昇する。

「お、おい、九ちゃん…っ」
「何?」

 耳を舐める舌から返された声に、身体が律儀に反応を返す。
 麻薬の含まれた葉佩の低い声を直接頭の中へ垂れ流されているようで、くらくらと眩暈がしてくる。
 戸惑う皆守を余所に、葉佩の手は遠慮なく皆守の細い太ももをゆっくりと撫でた。

「何じゃねぇよっ、お前何考えて…!」
「誘ったのはお前だろ」
「さそ…っ?!」

 無理矢理ここに座ったのは、意趣返しのつもりだった。70%くらいは。
 残りの30%は、葉佩の体温に触れたかった。
 それが、誘ったことになるならば、そうなのかもしれない。
 頭はオーバーヒートしそうだったが、この態勢では蹴りを繰り出すことも出来ない。
 そうこうしているうちに、着実に葉佩の手は妖しく揺らめいて先へと進んでいく。

 シャツをたくし上げられ、直接肌に触れた手に心も身体も戦慄いた。
 体温の高い手のひらが、冷えた自分の身体を触れた所からじんわりと溶かしていくようで。
 熱さと期待と怖さとがごちゃ混ぜになって、どうしていいかわからずに身体を捩って後ろを振り向く。
 視界に入った葉佩の顔は、今朝のような悪戯じみた光は宿していなかった。少し眉根を寄せた顔から感情を読み取ることが出来ずに僅かな畏れを感じる。
 だが、薄い唇を寄せられれば自然と瞼が落ちた。
 一度目は屋上で触れたように微かに。
 二度目は、少し強く。
 それは順に甘さを増して、皆守を動けなくさせる。

「九ちゃ、…っ」

 言葉は、口内に食まれて消えてゆく。
 侵入してきた舌に巧妙に探られて、簡単に明け渡してしまえばもっと深く。
 逃げ打つ舌が吸われて、行き場をなくした所を責められた。
 ラベンダーの味よりも、意識を朦朧とさせるそれに気がつけば互いに夢中になっていた。

 止まらない、止められない熱が。
 とめどなく高まって、ただそれだけしか見えなくさせるのがなんて心地良い事か。
 今だけは秘密も最奥へと鳴りを潜めて、ただ鮮やかに花開く想いだけに囚われていたい。

 唇が離れた瞬間に、切なさがポロリと零れ落ちた。

「ぁ、九龍…っ」
「…っ、甲太郎…その顔は反則だろ……」

 強く腕が身体を抱き、眦にきつく唇が押し付けられた。
 その熱が、同じ温度だと感じるのはただの気のせいではないと、思いたかった。

 交錯した葉佩の双眸は黒い。
 DVDを見るためにカラコンを入れっぱなしなのだろう。
 皆守は首を伸ばして、葉佩の目元に舌を這わせた。驚いて閉じようとする前に、コンタクトを舌で奪い取ると、望んだ深い青が現れる。
 極上のサファイアは苦笑を浮かべて、皆守の舌からカラコンを取ると再びくちづけをした。

 素肌をまさぐっていた手が、胸の尖りをなぞる。
 そんな場所を人に触られた事などない皆守は、むずがゆいような感覚に吐息を漏らす。
 葉佩の指は繊細な動きでその場所を押したり摘んだりと弄り回す。感覚を強制的に鋭敏にされて行く怖さで、皆守はウェーブの頭を緩く振るった。
 熱心な手は休むことなく動く。
 もう片方の手はいつのまにか皆守のジーンズのファスナーを降ろし、下着の上から形の変わった部分をやんわりとなぞる。
 キュッと確かめるように握られて、思わず高い声が漏れた。

「ん、…ぁあ…っ」
「甲太郎…、欲しい?」
「……くろ…ぅ?」
「なぁ、俺が欲しいって言えよ」

 ザワリ、と背中から何かが這い登る。
 耳朶に注ぎ込まれる悪魔の囁きが、曖昧だった境界線をもはや見えなくさせていた。
 催促するように葉佩の指先が唇をゆっくりと辿る。

 全て、見透かされているのだろうか?
 この癒えない傷がごとき想いを。
 
 誰よりも欲している事を。

「…しぃ…」

 熱さで頭が沸騰してるせいだ。
 この腕に捕らえられているせいだ。
 
 もう、誤魔化せないせいだ。

「…お前が、欲しい…九龍っ」

 溢れ出るそれを止められなかった。
 言ってしまって、どれだけ飢餓しているかに気付いた。
 カラカラに乾いて、ひび割れて、崩壊してしまいそうなほどに、欲している。

 優しい手が髪を緩やかに梳いた。

「甲太郎…、俺も、…お前が欲しい」
 
 
 その瞬間、全てくれてやると思った。
 
 
 
 
 何も残らなくてもかまわない。
 もともと、何も無かった場所に芽吹かせたのは他ならぬお前なのだから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 これは、曖昧に戻れない恋

作品名
Vague
登録日時
2009/04/28 (火) 23:00
分類
小説
  • URL

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